渾身の長文、記憶サルベージ。こんにちは。
えーと、何かを好きであるというものは、痛みを伴うものであると思うんです。
もちろん、一番幸せなのは、好きなものに成果がついてくることだと思います。
強いものが好き、という場合なら話は別ですが、
好きなものが強い! というのはそうそうありうることではありません。
好きなものを好きでいるだけで良い結果が得られるなら、
きっと今頃、世界はまるごと愛に包まれて、
無限でクリーンな愛エネルギーが世界を回していたことでしょう。
けれども、好きなものには得てして、成果が伴わず、
結果を求める人は、好きなものを好きなように愛でることを諦め、
好きを貫く人は、栄えある結果を捨て、理想と霞を食べて生きていくのです。
好きも結果も両立ヨユーです! という方ももちろんいるとは思います。
思いますが、その両立は計算と経験に基づく妥協の結果でしょう。
好きと結果を天秤にかけ、時々右や左へ揺らしながら、
成果を諦め趣味をとるか、趣味を諦め成果をとるか、
はかりはかってとった、妥協の両立であることが多々あります。
そうでもない、という方は、おめでとうございます。
あなたは世界で一番幸せかもしれませんよ。
次です。
例えば、性能とかを度外視して好きなものがあります。
好きな人は好き、強い人はにはあまり注目されない、そういうものです。
ここである日、なんと、その好きなものに、性能が付随しました!!
これで、好きも勝利たやすく両立できます。ぱんぱかぱーん!!
……となるのであれば、人間は人間を超越した新たな生命体となっていることでしょう。
強い人が、強くなったそれに目を向けるようになり、集まるようになります。
すると、困ったことに、好事家達が騒ぎ出すことがままあるのです。
性能だけに引かれて釣られたばかどもに使われたくない! だなんて。
そうして、何が彼らを駆り立てるのやら、居丈高に攻撃をして、
好事vs勝利、新参vs古参、醜くもありふれた、争いに発展するのでした。
続きます。人は好きなもので人を判断することがままあるようです。
自己紹介をするとき、好きなものを表明するのは非常に有効たりえるでしょう。
逆に、嫌いなものを提示しても、有意義な情報かは少し疑問です。
情報に厚みが出ますし、完全なる無意味ではないですが、メイン情報にはなりえません。
人は好きなものを共有する仲間とコミュニティを作りたがりますし、
人は好きなものをその人と関連づけて記憶します。
自分から見れば、好きも嫌いも度合いまで多々ある多角的な自分でしょうが、
他者から見れば、いつしか、好きなものイコールで私、となるのです。
最後です。好きなものを好きでいることは、他者を害することです。
好きなものを好き、というのは主張と呼べる類のものです。
主張は、他者に表現される、他者を自分の意見も認めさせるものです。
それを嫌いな人が、そんな主張をぶつけられれば、不愉快にもなるでしょう。
いたってニュートラルな人だって、何度も何度も無闇やたらと目に耳に触れれば、
嫌にもなるでしょう。
厄介なのは、主張する側は“好き”のジュラルミンを振りかざして、
好きを鎧に、好きを盾に、好意がまるでエコロジーなエネルギーであるかのように、
なんの違和感も罪悪感もなく、当然であるも思っている節があることです。
好きでいるためには何かを捨てなければなりませんし、
好きでいるものが注目されても幸せにはなれませんし、
好きでいると人の目は変わりますし、
好きでいるだけで誰かの迷惑ですし、
好きなものを好きでいるということは、身を裂くように重い、痛みを伴うのだと思います。
えーと、何かを好きであるというものは、痛みを伴うものであると思うんです。
もちろん、一番幸せなのは、好きなものに成果がついてくることだと思います。
強いものが好き、という場合なら話は別ですが、
好きなものが強い! というのはそうそうありうることではありません。
好きなものを好きでいるだけで良い結果が得られるなら、
きっと今頃、世界はまるごと愛に包まれて、
無限でクリーンな愛エネルギーが世界を回していたことでしょう。
けれども、好きなものには得てして、成果が伴わず、
結果を求める人は、好きなものを好きなように愛でることを諦め、
好きを貫く人は、栄えある結果を捨て、理想と霞を食べて生きていくのです。
好きも結果も両立ヨユーです! という方ももちろんいるとは思います。
思いますが、その両立は計算と経験に基づく妥協の結果でしょう。
好きと結果を天秤にかけ、時々右や左へ揺らしながら、
成果を諦め趣味をとるか、趣味を諦め成果をとるか、
はかりはかってとった、妥協の両立であることが多々あります。
そうでもない、という方は、おめでとうございます。
あなたは世界で一番幸せかもしれませんよ。
次です。
例えば、性能とかを度外視して好きなものがあります。
好きな人は好き、強い人はにはあまり注目されない、そういうものです。
ここである日、なんと、その好きなものに、性能が付随しました!!
これで、好きも勝利たやすく両立できます。ぱんぱかぱーん!!
……となるのであれば、人間は人間を超越した新たな生命体となっていることでしょう。
強い人が、強くなったそれに目を向けるようになり、集まるようになります。
すると、困ったことに、好事家達が騒ぎ出すことがままあるのです。
性能だけに引かれて釣られたばかどもに使われたくない! だなんて。
そうして、何が彼らを駆り立てるのやら、居丈高に攻撃をして、
好事vs勝利、新参vs古参、醜くもありふれた、争いに発展するのでした。
続きます。人は好きなもので人を判断することがままあるようです。
自己紹介をするとき、好きなものを表明するのは非常に有効たりえるでしょう。
逆に、嫌いなものを提示しても、有意義な情報かは少し疑問です。
情報に厚みが出ますし、完全なる無意味ではないですが、メイン情報にはなりえません。
人は好きなものを共有する仲間とコミュニティを作りたがりますし、
人は好きなものをその人と関連づけて記憶します。
自分から見れば、好きも嫌いも度合いまで多々ある多角的な自分でしょうが、
他者から見れば、いつしか、好きなものイコールで私、となるのです。
最後です。好きなものを好きでいることは、他者を害することです。
好きなものを好き、というのは主張と呼べる類のものです。
主張は、他者に表現される、他者を自分の意見も認めさせるものです。
それを嫌いな人が、そんな主張をぶつけられれば、不愉快にもなるでしょう。
いたってニュートラルな人だって、何度も何度も無闇やたらと目に耳に触れれば、
嫌にもなるでしょう。
厄介なのは、主張する側は“好き”のジュラルミンを振りかざして、
好きを鎧に、好きを盾に、好意がまるでエコロジーなエネルギーであるかのように、
なんの違和感も罪悪感もなく、当然であるも思っている節があることです。
好きでいるためには何かを捨てなければなりませんし、
好きでいるものが注目されても幸せにはなれませんし、
好きでいると人の目は変わりますし、
好きでいるだけで誰かの迷惑ですし、
好きなものを好きでいるということは、身を裂くように重い、痛みを伴うのだと思います。
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